ライン査定 無料買取査定依頼

HOME > 作家紹介(マイセン)

マイセン
Meissen
マイセン

ご売却に関しての詳しい情報は買取方法についてをご覧ください。

マイセンの作品を高価買取いたします。
美術品買取市場までお気軽にお問い合せください。
この作家の買取査定申込みはこちら


    • マイセン


    • マイセン


    • マイセン


    • マイセン


    • マイセン


    • マイセン


    • マイセン


    • マイセン
略歴  
17世紀頃 ヨーロッパでは中国の磁器や日本の伊万里などが人気を集めていた。
純白で薄く、硬く艶やかな硬質磁器はヨーロッパでは未だに作りだすことのできないものであり、列国の王侯貴族、事業家たちは競って、製法を見つけようとしていた。
なかでもドイツのザクセン選帝候アウグスト2世(アウグスト強健王)】は東洋磁器屈指の蒐集家であり、アウグスト軍に属する兵士600人とプロイセンの竜騎兵の壷151個を交換したという逸話も伝わっている。

【1700年 (元禄13年)】
チルンハウス伯爵によって、ザクセン文化として受け継がれていく「クリスタル」が生まれる。

【1705年 (宝永2年)】
アウグスト2世は、錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを幽閉し、白い金(きん)を作るように命じる。

【1709年 (宝永6年)】
3月29日、ベトガーは物理学者・数学者・哲学者エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス伯爵らの協力を得て、ザクセン・フォークラント地方のアウエ鉱山のカオリンを原料とした欧州で初めての白磁の製造に成功。
アウグスト2世はこれに大満足し、西洋磁器の歴史の幕が開ける。
※また近年の研究では、チルンハウスは1704年に既に磁器の焼成に成功していたのではないかとも考えられている。

【1710年 (宝永7年)】
1月23日、「ザクセンでは今や東インドと同等の磁器の製造が可能になった」という布告が出る。
ドレスデンに「王立ザクセン磁器工場」が設立。
硬質磁器製造の独占権が与えられる。これが現在の「国立マイセン磁器製作所」の始まりである。
6月6日、磁器工場は25km離れたエルベ川沿いのマイセン地方・アルブレヒト城の内部に移され、厳重に機密を保持。
12月29日、アウグスト2世は、ベドガーをマイセン磁器製作所の初の監督として任命。

【1720年 (享保5年)】
絵付師としてヨハン・グレゴリウス・ヘロルトがウィーンより招かれる。
彼は、白磁にオレンジ色を主体とした東洋風の花などを描く。また、アウグスト2世が強く望んだ柿右衛門の色磁器の写しも手掛ける。

【1724年 (享保9年)】
ヘロルトが、宮廷御用達の絵付け師として任命される。
ヘロルドは絵具を作ることに成功。
当時、ヨーロッパで流行していたシノワズリー(中国趣味)の文様や西洋的風景を描き、繊細な絵付けが、マイセンの絵付けの基本となる。
(「ヘロルト・シノワズリー」と呼ばれる細密画の分野を確立。)
「インドの華」と呼ばれる東洋風の草木を描いた意匠を生み出す。

【1736年 (元文元年)】
アウグスト2世は、重厚なバロック調を好み、大作の彫刻の注文が多かった。王亡き後は、小物を手掛けることが可能になる。
ケンドラーは、フランスのワトー銅板画から生まれたロココ様式のワトー画と磁器人形(マイセン人形)の制作を開始。
ヨーロッパ的なロココ調の作品が主流になる。

【1739年 (元文4年)】
「ブルー・オニオン」文様がクレッチマーによって発表。
ブルー・オニオンは、日本や中国の東洋の東洋磁器に描かれたコバルトブルーのザクロが西洋に伝わった際、西洋ではザクロが一般的ではなかったためタマネギと誤認されたことから作られた図案。

【1764年 (明和元年)】
工場私設の芸術学校が創設。4年間の訓練・実習と専門課程が設けられる。
フランスから彫刻家・ミシェル・ビクロール・アシェが成型師として招かれる。
神話、市民の生活の情景、子供の像を製作開始。

【1765年 (明和2年)】
ヘロルトがマイセンを引退。

【1774年 (安永3年)】
カミーロ・マルコリーニ伯爵がマイセンの工場長となる。
彼の在職した40年の間に花絵付けにおいて、新古典主義の影響が見られる。

【1817年 (文化14年)】
キューンが酸化クロムの緑色を開発。
この緑色でヨハン・サミュエル・アンホルトがデザインした「ワインリーブス」がうまれる。

【1827年 (文政10年)】
キューンが光沢金を開発。

【1865年 (慶応元年)】
城の麓・トリービッシュタールに工場が移転。国立マイセン磁器製作所が設立。
芸術学校の卒業生が大勢働く。
このころ「マイセンローズ」が誕生。

【1867年 (慶応3年)】
4回目のパリ万国博覧会で、マイセンは一等を授与。

【1873年 (明治5年)】
ウィーン万国博覧会で、マイセンは再び一等を獲得。

【1875年 (明治7年)】
5月20日、窯印、双剣が国内外で登録商標をとる。
なお、刃や鍔の傾きなどは年代によって変化し、制作年代を判断するのに貴重な手がかりとなる。

【1937年 (昭和12年)】
パリ万国博覧会で、ショイリッヒの6体の塑像群「休む人」「扇子をもった婦人」「誘拐」「婦人と鹿」「アマゾンと天使」「落馬する女性」がグランプリ受賞。

【1944年 (昭和19年)】
マイセン美術館の作品をアルブレヒト城の地下室に保管。

【1950年 (昭和25年)】
ソ連が、「マイセン」をドイツ民主共和国に返還。
「国立マイセン磁器製作所」が発足。

【1960年 (昭和35年)】
単に伝統を継承するだけでなく、未来に向って創造性を生み出そうというテーマのもと、マイセン近郊のモーリッツブルグ内にアトリエが作られ、トップアーチストたちが集まるようになる。

【1968年 (昭和43年)】
ハインツ・ヴェルナー、ルードヴィッヒ・ツェプナー、ペーター・シュトラング、フォルクマール・ブレッチュナイダー、ルディ・シュトレの「芸術の発展を目指すグループ(芸術創造のための集団)】】」が編成。

【1975年 (昭和50年)】
「芸術の発展を目指すグループ(マイセン5大芸術家】」が国家功労賞を受賞。
「芸術の発展を目指すグループ」は、これまでの研究を土台として、純粋に芸術的な一点ものの作品、すなわち「ウニカート」の創作を開始。

【1991年 (平成3年)】
東西ドイツの統合。
マイセンは、ザクセン州の国立施設となる。
自由経済社会に本格的に参加。
ルーディ・シュトレがマイセンを引退。

【1996年 (平成8年)】
ルディ・シュトレが心臓病のため死去。
ルートヴィヒ・ツェプナーがマイセンを引退。

【1997年 (平成9年)】
ハインツ・ヴェルナーが札幌マイセン美術館名誉館長に就任。

【1999年 (平成11年)】
1月、東京港区白金台に「マイセンミュージアム マルコリーニ」が開館。

【2001年 (平成13年)】
7月1日、箱根で「マイセンミュージアム マルコリーニ」は「箱根マイセン庭園美術館」と改名し再び開館。
ペーター・シュトラングがマイセンを引退。
現代、新しいマイセンのアーティストたちによるモダンな新作が次々と発表されている。
その一方で古くからの主題も、職人により製作され続けている。

ページトップ